今回は2018年12月に滋賀・京都に1泊2日でドライブ旅行にいった際の模様をご紹介します。
初日は朝4時に東京を出発し、滋賀県近江八幡市を最終目的地に途中、天下分け目の決戦「関ケ原の戦い」で有名な関ケ原と難攻不落の彦根城を目指します。
今回の旅行予定ですが、こんな感じです。
1日目:早朝出発。東京→滋賀(近江八幡)へ車で移動。途中、関ケ原と彦根城を見学。
宿泊:ホテルニューオウミ(ニューオータニ系列)
2日目:滋賀(近江八幡)→京都へ電車で移動。
訪問先は毘沙門堂、南禅寺、永観堂、知恩院、高台寺
夕方に滋賀へ戻り、夜に東京へ向けて出発。翌日午前3時頃に東京到着。
宿泊先はじゃらんで予約したのですが、紅葉の時期にも関わらず、1泊2名朝食付きで14,000円ととてもお得に予約出来ました。
※写真は13,000円となってますが、ポイントを1,000円使用しています。

この時期の京都のホテルは値段が跳ね上がるので、滋賀に宿泊して電車で京都に入るプランはおすすめです。ちなみに今回宿泊した近江八幡から京都までは電車で30分程で行けました。
東京から滋賀・関ケ原へ
東京から滋賀県近江八幡市までは458kmの距離があり、ノンストップで行っても新東名経由で6時間20分程かかります。

途中、休憩を挟みながら最初の目的地関ケ原を目指します。
関ケ原は新幹線で京都に行くと際にはその場所こそ通るものの、時速270kmで走る新幹線ですので一瞬で通り過ぎてしまうだけでした。
関ケ原の戦いは天下分け目の戦いとして有名ですが、私自身、どのような土地でそのような戦いが行われ、またどのようにしてその戦いが決したのか、実際にその場所に足を運び歴史を改めて学びたいと思い、今回訪れることとしました。
新東名高速は新しい高速道路の為、カーブが少なく、また路面も綺麗で走りやすいです。一部区間では120km制限と通常の高速道路以上の制限になっています。
途中のSAからは富士山も見えました。

天下分け目の戦いの地 関ケ原
途中サービスエリアで休憩を挟みながら無事に関ケ原に到着しました。
道路は渋滞することもなく、スムーズにドライブを楽しむことが出来ました。
まずは歴史民俗資料館で関ケ原の戦いについて一通り学んでから以下の丸の付いているところを回ることにしました。

関ケ原の戦い
ここで関ケ原の戦いについて、簡単にですが、今回訪れた場所の写真も交えて紹介していきます。
歴史に詳しいわけではなく、調べながら記載しておりますので、概要だけになってしまうところご容赦ください。
関ケ原の戦いは慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)、ここ関ケ原を主戦場として行われた戦いです。
関ケ原の戦いに至る経緯を辿ると豊臣秀吉の死後に発生した豊臣政権内部の政争が発端と考えられていますが、その政争は決して単純なものではなく、複雑に絡み合っており、西軍と東軍の対立の要因となったものに関しては諸説あります。
豊臣氏側の西軍と徳川氏側の東軍の対立というイメージがありますが、西軍が豊臣氏への忠誠心で結束していたというわけではないようで徳川陣営と反徳川陣営の対立と考えた方が良いみたいです。
関ケ原の戦いは「天下分け目の決戦」とも言われる運命的な一戦ですが、戦い自体は6時間という短期決戦で決着しています。
決戦当日、西軍の石田三成は笹尾山に東軍 徳川家康は桃配山へ陣を張ります。こちらが石田三成の陣地跡です。笹尾山という小高い丘の上にある為、敵が攻める際には上から狙われる為、相当大変だったんだろうなと感じました。

決戦当日の関ケ原は霧に包まれており、西軍、東軍ともにお互いの位置関係を十分に把握することは出来ていなかったようです。しかし、午前8時頃になるとその霧が晴れてきた為、西軍の旗が東軍側からも見えるようになってきます。

その為、東軍の井伊隊が宇喜多隊に、福島隊もまた宇喜多隊に対して発砲をして戦いが始まり、東軍が戦闘開始の狼煙(のろし)をあげます。
こちらが宇喜多隊の陣地跡です。

宇喜多隊は西軍最大の勢力を誇り、総勢17,000の兵力で参戦し、宇喜多秀家は西軍の副将に任命されていました。一方で井伊直政、福島正則もまた東軍の中心的存在でした。

戦闘が開始された直後は西軍、東軍どちらが優勢ということはなく、拮抗した状態が続きました。東軍、黒田隊による攻撃で西軍の島左近が負傷。そこに拍車をかけるように東軍の攻撃が激しさを増します。しかし、西軍も負けておらず石田隊の大砲攻撃によって、東軍を押し戻します。

西軍の反撃により東軍の前線が押し戻されると、家康は桃配山より、三成の本陣を目指して陣場野に陣を移しましたが、戦況は好転することはありませんでした。これをチャンスと三成は松尾山の小早川秀明、南宮山の毛利秀元に対して総攻撃の狼煙をあげますが、小早川も毛利もこれに応じません。
小早川は度々家康から使者が送られ東軍側に加勢するよう催促されていました。一方、毛利秀元は後見人である吉川広家と毛利家家老の福原広俊が西軍の勝利を危ぶみ、東軍と密かに内通して「毛利は表向きは西軍とするが、戦場では戦わずに東軍に協力するから東軍が勝利した時には領地をちょうだいね」と交渉していました。
ちなみにこちらが家康が最後に陣を置いた場所で、ここで討ち取ってきた敵の首級が実されました。



正午になっても勝敗は決することなく、西軍の反撃が激しくなる中、家康は松尾山の小早川に対して催促の為の一撃を行います。この一撃は上の写真の陣馬野の陣地から行われたようです。
これによって小早川隊が寝返り、大谷隊に対して攻撃を開始。小早川の突然の裏切りにより西軍は浮足立ったものの、大谷隊は善戦します。しかし、小早川の寝返りに呼応するように脇坂隊らも大谷隊への攻撃を開始し、大谷吉継は自害します。

大谷隊が敗れると、東軍の総攻撃が始まり、西軍最大勢力の宇喜多隊、小西隊も崩れ、それぞれ敗走しました。このように西軍の各隊の敗走が続く中でも石田三成率いる石田隊は東軍と戦闘を続けたものの、東軍の圧倒的な攻撃を前に北国街道方面に敗走し、関ヶ原の戦いは終結しました。戦闘開始から6時間という短期決戦だったようです。
島津隊ははじめから自ら攻撃することはせず、近付くものを打ち払うという姿勢で戦いに臨んでいました。最終的に残った島津隊は家康の本陣前を通過し、東軍諸隊の中を突っ切る形で伊勢街道方面へと逃走していったようです。
島津隊のこの後ろに退かず、前に退くという方法は前代未聞の方法で、その勇敢さをさしてこの退却戦を「島津の退き口」と称されています。
鬼気迫る勢いで突進してくる島津隊に押され、東軍についた部将と兵は唖然として見送ったと言われていて、猛将として知られる福島正則でさえ手を出さなかったと言われています。
そして、こちらが関ケ原の戦いの決戦地の碑が立つ最大の激戦地です。地図のようにここから石田三成の陣地を臨むことが出来、攻める方も守る方もこの地で必死に戦っていたのだろうと当時に思いを馳せていました。


まとめ
今回、関ケ原を訪れて当時、この場所で多くの人たちが命を懸けて戦っていたのだと考えると、平和な世の中が当たり前ではなく、今平和な世の中に生きていられることが幸せなことなんだと感じました。
また、なんで同じ国同士の人が命をかけて戦わなければならないのか、なんでともに協力して国を盛り上げようとしないのかと考えていましたが、当時の人たちも決して戦いを好んでいたわけではなく、平和な世の中を作る為に戦っていたんだと、その為にはこの関ケ原の戦いもまた必要で、この戦いがあったからこそ今の平和な世の中があるんだと思いました。
皆さんも是非、機会がありましたら訪れてみてください!